おはようございます 相変わらず不定期なブログを発信しております
さて今日は…
和辻哲郎さんは、『人間の学としての倫理学』と言う本の中で「人間」と言う言葉について次のような興味深い
考察をされています。
私たち日本人は、「人間」も「人」も
共に人(man)の意味として使っています。
すると「人間」の「間」は何を意味するのでしょうか?…。
おそらく次のような答えが返ってくることでしょう。
人は人々の間で揉まれて始めて人となるから「人間」と言うのだよ、と。
でも和辻さんはもっと厳密に考察しておられます。
もともと漢字の「人間」は仏教用語で、輪廻転生する五つの世界(五道、阿修羅を加えると六道)である「地獄、餓鬼、畜生、人間、天上」の「人間」を意味するとされています。
ところが、この五つは正確な漢訳では
「地獄中、餓鬼中、人間、天上」であり、其々についている「中」、「間」、「上」がいずれもloka(世界)の訳語であると指摘されています。
従って「人間」とは「人の世界」と言う意味で、「人間社会」を意味しても、個人としての「人」を意味することはないわけですが、通常の仏教用語としては「中」を省略して「地獄、餓鬼、…」のように二字に揃えるために、例えば「畜生」と「人間」とが並記されることとなり、「人間」と言うが畜生(動物)に対する「人」を意味するようになったと言うわけです。
和辻さんの考察は更に続き、実は、純然たる日本語としての「ひと」と言う言葉の中に、そのような誤解を起こさせる要素があったことを指摘されています。
即ち「ひと」と言う言葉は、「ひとの物を取る」(他人の所有物を盗む)、
「ひと聞きが悪い」(世間への聞こえをはばかる)、「ひとをバカにするな」(私をバカにするな)などと使われて、「ひと」という一つの言葉が「自」、「世間」の三つの意味を同時に持っていると言うのです。
このような下地があった故に、「人間」(人の世界)という全体性を表す言葉が、個々の「人」をも意味するようになったというのです。
このような全体と部分を同じ言葉で表す例は、「兵隊」や「友達」、「女中」や「連中」にも見ることができます。そして和辻さんは、日本人は日常的に、全体の名で部分を呼び、部分に全体を見ている、と指摘しておられます。
とすれば、全体性を表す「人間」という言葉で個の「人」を見ている日本人は、人は自分だけでは生きられず、他の人々に生かされ生かしつつ生きるのだという全体との関係を意識する智慧があったことになりますが、
現代日本人もそうだと言えるかは?…問題でしょう☝️
美樹生
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