1995年1月17日 5:46…あの日を忘れない

1995年冬…正月から三ヶ日も過ぎ、平常な生活に戻り始めた頃の大惨事であった…嘸かし驚いたなどと言う言葉すら失ってしまうくらい度肝を抜かれたことだろうと思う。
5:46分といえば まだ外は薄暗い冬の時期である。爆弾的に起きたこの地震、後に "阪神淡路大震災"と名付けられた…。

この震災の動画や沢山の著書も出回った…それほど過酷で酷い災害だと明記された。

ボクの所在地は北の大地 北海道であるが、この頃はまだ若く熱い盛りであった。
「こんな酷い災害に沢山の人たちが路頭に迷っている事だろう。ボクたちにも何か出来ることはないだろうか?」とボランティアとして立ち上げたのでした。

"夢民村"(むうみんむら) の先駆けであった仲間たちと一緒に手を取り合い立ち上げたのでした。 先ずは子供達のホームステーを受け入れ
役100名程の小中学を対象に受け入れたのでした。あの恐ろしかった悪夢のケアーに一役買おうと冬の農閑期を利用し 子どもたちに北国ならではの冬の暮らしとレジャーの醍醐味をやく3ヶ月間活躍しました。他の北海道地区でも受け入れしたようだが、全国的にも広げたのだが やはり 都会住みの方々は難しい問題を抱えてしまうと言うことで 田舎方面へ広まった。

最初は「どうなる事やら…」と不安であったが、子どもたちは純粋に初体験の雪や冬の暮らしに瞳をキラキラさせて喜んでいた。
スキー、パラセイリング、スノーモービル、スノボ… 子どもたちは終始 笑顔が絶えなかった。こうして3ヶ月の期間もあっと言う間に過ぎ いよいよお別れである…。子どもたちの元へ 父兄さん方が迎えにやって来た…。

子どもたちは目にはイッパイの涙が溢れて出ていました「帰りたくないョ〜!」と言い出す子も居ました。

アレから23年も過ぎてしまいました…。一度震災後の姿を見てみようと10年程前に尋ねて見ました。見違えるように綺麗になった街並み、そして大きく育った子どもたち 何度も何度も感謝され 照れてしまう始末(笑)

そして今…その子どもたちは北海道に渡り各地区で農業を展開している、新しい感覚で自分の個性を発揮したマルチな展開を見せている。その子どもたちの思いとは「人の繋がりとは温かさを感じるものでなければならない 金銭上で繋がる者は それは取引である。
繋がりとは言い難い…」
素晴らしいポリシーも持ち 改めて成長した彼らを見て「あぁ ボクらのしたことは確かだったのだな…」と改めて感じた。
美樹生

美樹生の窓  【四方山話】日常生活においいての気つ”き

【日常のblog】 北海道の片田舎に住むシニアの独り言を語って居ます。幼少の頃から引っ込み思案で中々前に出ないで いつのまにか大人…COPDと言う厄介な持病を抱え職をリタイア…しかし、立ち位置が変わって見えてきたものもある 果たしてこの先の人生をどう読む…あなたと一緒に考えたい☝️

1コメント

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  • Mr.Ojisan

    2018.01.17 21:20

    素晴らしいデス 思ってもなかなか出来ないボランティア活動 私は震災の起きたその週末、会社の庶務担当のところへ片道6時間歩いて義援物資を届けるのが精一杯でした あとは顧客の建物の被災状態を調べレポートを纏める日々で徹夜続き 思えばまだ20代でしたから体力だけはありましたね~♪