…不安定な日本の状態…この状態は、いつまで続くのか。そもそも近代日本で安定していた時期などあっただろうか…
高度経済成長は公害が、バブル時代には土地転がしや錬金術師が薄ら笑いを浮かべ、株やマネーロンダリングで ひと財産を築いた輩はその後の経済破綻を迎え、頭を抱える…
ITバブルは、いとも簡単に勝ち組と負け組を生み出した。そんな矢先の自然災害。沖縄をはじめてとする国際問題、人災と呼ばれる原発事故、老後・年金問題など政治が抱える問題もいつの時代にも それなりに存在していた
世界に対しリードしていた産業は人件費の安い国に いつしか抜かれた…日本の産業は冬の時代へと。
警笛を鳴らす評論家はいても 改善策は誰も出さない。
音楽家は音で警笛を鳴らすしかない…
1980年に吉田拓郎は『アジアの片隅で』を発表した。
1970年代をトップランナーとして走り続け、1970年後半からはフォーライフレコードの経営者として敏腕を振るっていた。そう言った観点からか その時の拓郎はミュージシャン側と経営側の二面で物事を判断していたように思う。
それは1979年の拓郎の発言をまとめていけば理解できる。彼は来るべき1980年代にある種の恐れを感じていたこと。見えない世界、不安定な世界を迎えることに対しどう向き合っていくのかを模索していたとも言える。
それは、軽音楽を生業とした彼らの将来とは誰もが未知の世界だったからだ。30歳を過ぎてもステージに立つことは、今の時代ではさほど騒ぐことでは無くなったが、当時は先人も居ない中、これから何歳(いくつ)まで歌をロックビートにのせて歌えるのかは多くのミュージシャンの心の隅にそっと置かれていた問題だったのだ。プレスリーは死に、ビートルズもそこにはいない。ミュージシャンは職業なのか、生き方なのか?…
拓郎の出した 一つの答えは、70年代との決別であった。
それまでの歌を封印し、一から出直す。もう一度起点に立ち返り、歌い直すと言うもの。
客との馴れ合い・・・「落陽」や「人間なんて」を演奏すれば盛り上がることは分かっている。しかし、その盛り上がりにアンチテーゼを見出した。コンサートでの盛り上がりを懐疑的に思うなど演奏と観る側の関係で考えればありえない論理であるが、それも新たな時代を迎える上での重い十字架となり拓郎の肩に のしかかっていたのだ。
拓郎には「人間なんて」と言う大きな歌がある。1970年代のコンサートではアンコールでよく歌われていた歌だ。延々と続くリフ。そのリフに乗せて拓郎の叫びが会場に木霊する。この歌で拓郎も客も完全燃焼する。
しかし、その歌を拓郎は1979年の篠島コンサートを境に歌わなくなった。1979年の秋のツアーのラストは新曲の「ファミリー」となっている。
観客は戸惑いながらも拍手を続け「人間なんて」を待ったが、いつも会場の明かりがそれを阻止していく…。
1980年代を迎える拓郎なりの答えの出し方であった。
そして、1980年。
コンサートツアーはニューアルバム『シャングリラ』(1980)から中心に新曲のみというセットリストで臨んだ。客との馴れ合いもリセットしたかったからだ。
そして、そのツアーでニューアルバム以外から演奏された曲が数曲ある。それらはレコードとして発表されていない歌たちだ。「愛しておやり」「街角」「ファミリー」「古いメロディー」そして「アジアの片隅で」。
「アジアの片隅で」はコンサートの前半で唐突に歌われた。アコースティックギターの激しいカッティングが數小節繰り返され、そこにバンドが音を乗せる。そして拓郎の激しい言葉が畳みかけるように空を舞った。
拓郎はこの頃、ボブ・マーリーをコンサートで観ており、レゲエリズムの単調さに荒々しい内容の言葉を乗せることにヒントを得たようであった。そのためか拓郎の1980年代初期にはレゲエを多く用いた作品が多い。
ただ、観客からしてみれば妙なリズムに言葉が乗っている印象はあり、トーキングブルースのように聞こえた。
拓郎は何かに取り憑かれたかのように言葉をぶつけてきた。その言葉は預言者の言葉のような語りで、しかも抽象的でなく具体的なシーンを聴く者に想起させた。
作詞は岡本おさみ。拓郎がデビューしたときからの付き合いで、その後、岡本はニッポン放送の放送作家であった。 「落陽」「旅の宿」「襟裳岬」「リンゴ」などの詩を書き『シャングリラ』にも「いつか夜の雨が」「愛の絆を」を収めている。
拓郎と岡本は会うことなく、いつも電話のやりとりで作品を作ってきた。その日も岡本からの電話を取り、拓郎は電話口で彼の言葉を紙に書き綴った。
拓郎は、岡本は狂ったのでは無いかと電話口で思った。ただただ、あふれ出てくる言葉を書き留めるなかで熱い血が滾る思いだったと言う。
ひと晩たてば 政治家の首がすげかわり 子分共は慌てふためくだろう
闇で働いた金を新聞は書きたてるだろう
ひと晩たてば 国境を戦火が燃えつくし 子供達を飢えが襲うだろう
むき出しのあばら骨は戦争を憎み続けるだろう
アジアの片隅で狂い酒飲みほせば
アジアの片隅で このままずっと
生きていくのかと思うのだが
ひと晩たてば 街並みは汚れ続けるだろう
車は人を轢き続けるだろう
退屈な仕事は野生の魂を老けさせるだろう
アジアの片隅で狂い酒飲みほせば
アジアの片隅で このままずっと
生きていくのかと思うのだが
ひと晩たてば 秘密の恋があばかれて 女たちは噂の鳥を放つだろう
古いアパートの部屋で幸せな恋も実るだろう
ひと晩たてば 頭に彫った誓いが崩れおちて
暮らしの荒野が待ち受けるだろう
甘ったれた子供達は権利ばかり主張するだろう
アジアの片隅で狂い酒飲みほせば
アジアの片隅で このままずっと
生きていくのかと思うのだが
ひと晩たてば 働いて働きづくめの男が 借 た金にほろぼされるだろう
ひと晩たてば 女まがいの唄があふれだして やさしさがたたき売られる事だろう
悩む者と植えた者は両手で耳をふさぐだろう
アジアの片隅でお前もおれもこのままずっと
アジアの片隅でこのままずっと生きていくのかと
アジアの片隅で・・・アジアの片隅で・・・アジアの片隅で・・・おれもお前も・・・
激しい言葉が鋭く突き刺さる。拓郎節の早口は何をもがいているのか。
そして、何を訴えているのか。耳に神経を集中させ、約13分の演奏に身を投じる…。
1980年は日本ではオフコースが全盛を極め、ブラウン管からはサザンやアリスが頻繁に流れていた。いわゆる女性向けの作品が多く発表されていた時にこのような辛口の詩が受け入れられるはずがない。しかし、発表するのは今しかないと思ったと言う。
新曲のみのコンサート「1980年・春のツアー」は4月から始まり7月の日本武道館まで20箇所で開催された。
全ての会場で「アジアの片隅で」は演奏され、その中から『シャングリラ』のプロデューサーでもあるブッカー・Tジョーンズを迎えた日本武道館公演の音源が後に『アジアの片隅で』(1980)に収録され、それが公式音源となった。
80年代頭、拓郎は悩んでいた。コンサートツアーを精力的に行っていたが、経営者とミュージシャンと言う二刀流の関係を一手に引き受けていたが、精神的には悲鳴をあげていたのだ。拓郎が出した答えは経営者を降り、1ミュージシャンを選んだ。
そして、1985年のつま恋のイベントを挟み、「アジアの片隅で」がひと時代を築いた歌であることは間違いない。
70歳を超えた今の拓郎は 何を思う・・・
楽しく毎週日曜の深夜にファンと談笑する姿は もう 勝手の鋭いナイフのような気がまえをする拓郎の姿は消えていた…少しずつ、ゆっくりと終活の道を辿り初めているのか・・・
拓郎伝説はいつまでも残って欲しい・・・
美樹生
4コメント
2018.06.16 11:22
2018.06.16 09:00
2018.06.16 07:27