昨日は母親の命日にあたる日であった…
この母親、僕の人生を変えさせられた人といっても過言ではない人であった…。
もう一人、その原因を作った張本人がいる。
それが父親である…。
あれは僕が小学生の四年生の夏の出来事であった…。
集会の帰り道、酒を飲み自転車に乗り帰宅中、車のライトの光に目がくらみハンドル操作を誤り、可なり深い路肩に落ち、脊髄損傷で身体が動けず、声も出せず居た。
しばらくすると、何とか呻き声だけは発生られるようになったらしい。
奇跡的に、同じ経路を通ってきた町内の人に発見され、数人で何とか引き上げリヤカーに乗せて運ばれて帰った…。
当時、国道237号線は未だ未走路で砂利道であり自転車も走りづらかった状況であった。
日赤病院に緊急入院し、手術と言う事にあいなったのだが、運悪く名医に当たらなかったのが原因なのか、手術は成功とまではいかなかったようだ…しかし、医者は失敗は認めず、「5年間を要し結果はその時出る」と言った。
ここまでの話は小四の子どもには、把握はできない…みんな、母親からの言葉から聞いた話である…。
やがて、5年の歳月の流れが過ぎ、一通の手紙が届く…五年前の手術をした担当医からであった…長々と便箋5枚からの綴りであった…。
母親の目には涙が一筋溢れた…。
今更、非を認められても、致し方ない思いだ…手紙の内容では再度の手術の勧めであった…しかし、結果はもう見えている「実験代にされてたまるか!」と破り捨てた。
親戚中でも意見は別れた、結局、体験者に遭遇して「殺される。医者の名誉は失敗した経歴は残ると医者としてのプライドに傷がつく、証拠は残したくないため消す…」であった…。当時は今とは違い、結構横暴な振る舞いがあったようだ…。
寝たきりの父親を持ち、母親のとった生きる道は、僕に託された!農家の後継…正直、全く考えていなかった。
おそらく、母親の考えは「息子が務め、給料で残された祖母や父親、母親など食べさせて行けるわけがない!」しかし、水田が特別多作してるわけでもない…。
ヤケクソで始めた農業もスタートから砂を噛むような思いばかりで始まった…。
そして今…両親は既に居なく、自分もまたリタイアしてる…内容は違うが父親と似た運命を辿っている…蛙の子は蛙…
そんな人間捨てることだってできたのに…もっと幸せになるたかもしれないのに!…
妻も、また同じ経路にいる…こんな僕なのに
いつも機嫌を伺って「いってきま〜す!」と出勤していく背中を見る度に(すまない…)と言葉にならない言葉を呟く…)
あと幾年、生きることを許されるのかわからないが、残された時間の中で 妻と子どもたちのための「幸せ」を模索して見よう…。
美樹生
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2018.08.02 21:06
2018.08.02 13:00
2018.08.02 02:25