多分、死ぬまで分からないと思う。
幾十年と生きてきて、色々な者や物に出会い、気づきや挫折を知り、力の根源を多少分かるようになった頃、無力感と安心や不安を覚えました。そして、「自分は何者ぞ?」無力な天才として知りました。「無力な天才」そう 「凡人」なのです。これが今の自分にピッタリな名称でしょう。☝️
あなたは何者?
なにかにきちんと向き合うと、
自分が「できること」と「できないこと」がある程度見えてきます。
人が前に進んでいくときに(そしてそれが未知の領域であればあるほど)、
自分にできることと同じように、自分にはできないことを、
自分で知っていることはとても重要になってきます。
しかしそれ以上に「自分が何者として生きるのか(生きているのか)?」ということが、
何よりも重要なことだと僕は思っています。
2016年に
僕が決めたこと
去年(2016年)のちょうど今頃(9月頃)、とあるワークをやってから、
「少なくとも自分は『文章を書く人』として生きてみたい」と思うようになりました。
しかしその頃、僕はまだ小説を書くことも想定していませんでしたので、
ブログをコシコシと書くことから始めたわけです。
そこから春樹さんの『職業としての小説家』という本に出会い、
「おぉ、これこれ。僕のやりたいこと、これやん」ということに思い当たりました。
(今考えてみれば、それはとてつもない「勘違い」なのですが、
ひとまずそこから始まったことは間違いないわけです。)
兎にも角にも、このとき初めて「自分は『小説家』として生きる」、
という「自分の『何者観』」が定まったわけです。
自分は何者として
生きたいのか?
とはいえ、その当時の僕は小説なんて書いたことがなかったので、
そこからさっそく万年筆(Pilot:1,000円)と400字詰めの原稿用紙を買ってきて、
なんでもいいから文章を書いていきました。
そこには日記のような内容があり、今まで会ってきた人々の描写があり、
見たことのある景色の風景描写がありました。
小説家という生き物は、小説を書く前に文章的な「スケッチ」をよく行いますが、
この頃の僕がやっていたことはスケッチではなく、単なる「お絵かき」レベルのものでした。
その当時の僕はIT系の会社にいてやることも多かったので、
休みの時間を使ってそういったことをやりはじめたわけですが、
いっときは上がっていたその熱も、忙しい日々の中で少しずつ冷めていってしまい、
文章を書くスピードはどんどん落ちていきました。
毎日書いていた僕のペースは3日に1度になり、週に1度になり、
いつの間にか「文章を書く」という行為をやめてしまいました。
冷める情熱、止まる行動
熱いものは、加熱し続けないと、冷めてしまう。
これは物体であろうと人の心であろうと同じです。
僕らの身体が常に体温を保っていられるのは、
エネルギー源となる炭水化物を摂取し、
それらが体内で分解され、最終的にはミトコンドリア内で熱エネルギーに変換されるからです。
つまり、エネルギー源を摂らないと僕らの身体は「熱を失っていく」ことになります。
これは僕たちが「好きなこと」をやるときも同じで、
何かを新しくはじめたり、続けたりするときに、
「いかにしてエネルギーを取り続けるのか?」
ということがとても重要な課題となります。
話が少し戻りますが、ここでもやはり、
「自分は何者として生きるのか?(生きたいのか?)」ということに、
集約されるのだと僕は思うんですね。
なぜならこの「自分は何者なのか?」という認識が、
僕らの何よりのエネルギー源になるからです。
僕があれから定期的なランニングをし続けたのも、
文章を書き続けたのも、人や風景や心理を観察し続けたのも、
すべては「何者として自分は生きるのか?(生きるつもりなのか?)」を明確にして、
そこに対して、(怖くても)飛び込んで無駄あがきを続けたからだと思います。
せっかくだから
考えてみる
さて、ここまでの話を単なる知識とか他人事として受け取るのもいいのですが、
せっかく(たまたま)ここまで読んでくださっているのですから、
「あなた自身のこと」に置き換えて少し考えてほしいのです。
あなたは、何者として生きてみるのでしょうか?
もしくは何者として生きてみたいのでしょうか?
答えはきっともうあなたの内側にあるはずです。
静かな場所で、目を閉じて、自分に聞いてみましょう。
「あなたは、何者?」
それでは今日もこの辺で。
きっと明日も良い日です。
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3コメント
2018.01.21 19:18
2018.01.20 22:36
2018.01.20 22:33